アカネ

著:木本雅彦
マンション入口のカメラに写った宅配業者が、身分証明書をかざしている。

認識番号読み取り。認証確認。アキラは玄関のロックを解除した。

宅配業者が運び込んできたのは、約二メートルのパルプ繊維の白い箱で、カー
トから下ろされた後、細長い端を引きずられるようにして玄関から廊下に持ち
上げられた。

作業服に似た制服を来た配達員は、帽子を取って小型のパッドを差し出した。

「田野倉工房からのお届け物です。こちらに承認を」

アキラは印鑑の指紋センサに指を合わせてつまみ、パッドに押しつける。配達
員は一礼して去っていった。

「さて、と」

玄関から入ってすぐの廊下に置かれた白い箱をしばらく見つめ、箱の側面の固
定器具を取り外した。ゆっくりと上面の蓋を開く。中から緩衝材に包まれた白
い身体が現れた。

ドールである。

アキラはドールの身体の下に腕を差入れ、腰に力を込めて抱きあげた。小さな
身体を護るように抱き、そのまま室内へと運ぶ。ワンルームの窓際には、一人
暮らしにしては大き目のベッドがあり、替えたばかりのシーツが皺もなく張ら
れている。アキラはドールをベッドに横たえた。

一旦廊下に戻り、箱の中から付属品を運ぶ。ドールの背中を開き、燃料電池の
カートリッジを挿入した。これで一年は稼動できる。

いつの頃からかドールには、反射動作回路が組み込まれるようになった。身体
を撫でれば反応するし、頬を触れば気持ち良さそうにまぶたを閉じる。名前を
呼べばそちらの方向に首を向ける。反応が大きくなれば、足を大きく上げ、両
手を拡げて相手にしがみつく。その程度の運動能力を持ったアクチュレータを
全身に塔載している。

しかし二足歩行できるわけではない。筋力の問題でなく、バランスを保つ制御
回路を塔載していないのだ。ドールの所有者たちは、中途半端な歩行能力より
は、横たわったままでいて、その姿勢を崩さずにベッドの上でのみ意味のある
最大の反応を示す身体を欲した。

アキラは裸のドールの身体を指で撫でた。額から頬、首、乳房、そして腹部の
くぼみへと。

ナナミB型の頭部に、J8型のボディを組み合わせた、田野倉工房製のカスタ
ムドール。その造型は見事に均整がとれていて、アキラの指の動きに忠実に肢
体をぴくりと反応させる。反射動作だけを取って見れば、実物の女性と区別が
つかない。あと数年もすればマイクロマシン集積型の素材が実用化される見込
みで、そうなれば皮膚の小さな傷くらいは自己修復するようになるだろう。

無論、人間との違いはある。ボディの大きさは実際の人間よりは一回り小さい
し、重量も人間の半分程度に抑えてある。そうでなければ、自らの意志を持た
ないドールの身体を抱きかかえるのは不可能だ。

アキラの指はドールの下腹部へと移動した。四肢がひときわ大きく跳ねる。

「いい反応だ。君の名前は……そうだな、カシスにしよう。赤紫の瞳の色が印
象的だからね」

アキラは立ち上がり、クローゼットを開いた。

「君も今日から彼女達の仲間だよ」

クローゼットに並ぶのは、幾多のドールたち。生なり地の薄いドレスを着てい
るドールもいるが、多くは裸体である。その中に一体だけ豪奢なゴシックロリー
タの服をまとったドールが座っていた。アキラが最初に手に入れたドールであ
る。旧式の反射動作回路さえ組み込まれていない、正真正銘のただの人形だ。
だがアキラは、このドールを手放せずにいた。

「さあ、アカネ。君は一番のお姉さんなんだから、新しい友だちを快く迎えて
あげないといけないよ」

アキラは膝をつき、アカネという名のドールの肩に手を置く。どんなにドール
の機能が進化し人間に近づこうとも、アカネの魅力にかなうものはない。その
肌はどこまでも白く、視線を持たない瞳はそれゆえに麗しい。耳を撫でようと
も、乳房に手を這わせようとも、何の反応も返って来ない。しかしアキラは知っ
ている。アカネがどれだけ悦んでいるか。アカネがどれだけ自分を愛している
か。そして何より、自分がどれだけアカネを愛しているか。

アカネはアキラにとって始めてのドールである。始めてその美しさに魅せられ、
切望し、ようやくの思いで自分の物にしたドールである。手に入れてからの長
い年月とその思い出は、何にも替えがたい。アカネがただの人形であろうとも、
むしろ人形だからこそ、愛しく感じていた。

薄く開いたアカネの唇に、アキラは口を軽く当てる。そして大切そうにクロー
ゼットの壁にもたれさせると、立ち上がって廊下へと向かった。

新しいドールの箱を片付けなければならない。すべて可燃製素材ではあるが、
大きな物だけに処分は面倒である。箱を解体し、緩衝材を袋詰めしていたら、
箱の隅にはさまっていた小さなメモが落ちた。

田野倉工房からの、定期検診の案内だった。


                                ◆


両眼に被さるような視線センサをまとい、簡易型のfMRIを装着する。検査
官から繰り出される単調な質問に、差し障りのない単調な答えの繰り返し。一
問十五秒の問答を五十問繰り返した。

「終りだ。外していいぞ」

田野倉は言った。一流のドール技士は、一流の心理検査官でもある。

ドールの所有者は定期的に心理検査を受けることが義務付けられていた。曰く、
人間に近づくドールに不必要に感情移入しないため。曰く、健全な価値判断能
力を持った精神を保つため。

余計なお世話だと思いながら、アキラは頭部の検査装置を外していった。

それを手伝いながら、田野倉が諭す。

「まあそう不機嫌になるな。人間に似て非なる物に警戒心を持つ奴は、いつの
時代にだっているものだ」

「だけどどんなに人間に近づけようとしたって、人間にはなれません」

「まったくだ。その点お前さんは心配ないみたいだな。ドールはあくまでドールと
して割り切っている」

「田野倉さんの作るドールが素晴しいことは認めていますよ。でも、反射動作
回路はどうも納得できない。別に無理に人間に近づけようとしなくてもいいん
じゃないですかね」

「人形は人形のままで、ってことかね。それも一理あるが、そもそも人形って
のは人間が自分に似せて作ったものじゃないかね」

「矛盾はあるかもしれませんが、要はどこで線引きするかってことですよ」

「まあ、確かに矛盾はあるな。……矛盾と言えば、もう一つ矛盾した話がある。
今後、すべてのドールに反射動作回路を付けることが義務付けられることになっ
たよ」

「はあ? なんですか、それは」

「ほら、例の連続殺人事件の犯人が捕まっただろ?あの女性の遺体をコーティ
ングして収集していた奴だ。あの影響でな、人間みたいな人形を集める奴も、
人形みたいな人間を集める奴も、どっちも危険だと世論が判断したってことだ
な」

「そんなのは、極端な例じゃないですか。僕はそういう奴とは違う」

「それはそれこそだな、線引きの問題なんだよ。どこかで線引きをしないと世
間は満足しないのさ。お前さんのところにも、初期のドールが一体あったはず
だな。あれにも反射動作回路を組み込むから、今日の夕方にでも用意しておい
てくれ。引き取りに行ってやる」

アキラはうつむいた。

「絶対なんですか?」

「義務だからな」

「でも個人の所有物に、」

「おいおい。さっきと言っていることが違うじゃないか。ドールはあくまでドー
ルなんだろう? 何も変わらん。問題ないよ」

「……そう、ですね」

アキラは工房に隣接した診察室を出た。田野倉の言葉が頭の底のほうに重く残
り、ぼんやりとしたまま帰宅した。


                                ◆


問題はない、はずである。自分の頭でも理解しているし、田野倉の判断も間違っ
ていないだろう。

アカネに反射動作回路を組み込んだところで、何が変わるでもない。ドールで
あることに違いはない。むしろ回路を付加することで、新しいドールに生まれ
変わるのだ。いや、そんな大きな違いでさえもない。ほんの少しだけ進化する
だけで、アカネがアカネであることは変わらない。

薄暗い部屋の薄暗いクローゼットの前に立ち、アキラはアカネの頭に手を置い
た。髪を撫で、その先を指に絡ませる。張りのある髪は、指の間で軽く弾けた。

「だけど……」

自問を繰り返す。本当にアカネはアカネのままでいてくれるだろうか。

アカネを見初めたのはカタログでだった。衝動に任せて田野倉工房に連絡をと
り、アトリエを見学させてもらった。アカネはベッドに横たえられていて、ガ
ラス玉の瞳は宙に向けてぼんやりと視線を漂わせていた。シリコンの皮膚は冷
たく、しかし触っていると体温が移ってほのかに暖かくなる。自分の手とアカ
ネの温度が同じになったとき、言いようのない一体感を覚えたものだ。

アキラは何度もアトリエに通い、ようやく貯金を貯めてアカネを手に入れた。
それからというもの、収入のほとんどはドールに費したが、アカネに勝るドー
ルはない。

アカネに自律駆動能力はない。だがアキラが手を添えてやることで、その身体は
自在に動く。アキラがいることで、アカネは命を得るのである。

反射動作回路をつけられたアカネは、アカネのままなのか。いや無理だ。彼女
の存在は、ドールとしての彼女と自分との時間の積み重ねの結果であり、新しい
身体を得た彼女はもはやアカネではない。

「アカネ……僕はどうすればいいんだろう……」

その声に反応して、他のドールたちが一斉にアキラのほうに首を向ける。反射
動作により、かすかな微笑みをアキラに向けた。無表情なのはアカネだけであ
る。アカネは人形であり、アキラがいない限りにおいてはシリコンの塊であり、
だからアキラはアカネを放っておけない。

「逃げよう」

アキラは立ち上り、荷物をまとめ始めた。手当たり次第に必要そうなものをか
き集め、車へと運ぶ。何往復かしたところで、はたと冷静になった。自分は何
をやっているのだろう。

ドールに固執するあまり心理検査に不合格になった人間の末路を聞いたことが
ある。監禁されて精神矯正を受け、ドールに対する興味を完全に喪失させられ
て、勿論その後ドールに近付くことを厳格に禁止される。人間として扱われな
いのと同じことだ。そんな目に進んで合おうとする人間なんているはずがない。

アキラは呻きながら部屋に立ち尽くした。

窓からさす日は既に低く、夕刻を示してる。
                                
                                ◆

田野倉は何度もチャイムを押し、玄関のカメラに向かって手を振った。しかし
室内からの返事はない。迷った末にドアを押してみたら、あっけなく開き、蝶
番のきしむ音が廊下の奥まで響いていった。

「おおい、いないのかね」

躊躇しながらも室内に入り、玄関を閉めて靴を脱ぐ。廊下にむかって再度呼び
かけるが、やはり返答はない。

廊下を進み部屋のドアを開けると、そこには床にしゃがみこむアキラの姿があっ
た。

アキラは泣いていた。アカネと向かい合い、アカネにしがみつくようにして泣
いていた。顔じゅうが涙でびしょ濡れになっていた。

「逃げようと思ったんだ。でも逃げれなかったんだ。どうしようもなかったん
だ。僕には無理だったんだ」

繰り返し、繰り返し、涙と一緒に吐露していた。

田野倉がつぶやいた。

「そのドールは……いつ動作回路を取り付けたんだ?」

アキラが顔を上げる。田野倉が何を言っているのか分からなかった。その目の
前で、アカネがゆっくりと右腕を上げた。そして手の平をアキラの頬に添え、
その涙をぬぐう。

アキラは呆けながらも、アカネの目を見つめる。彼女の顔はゆっくりと、ゆっ
くりと、ためらいながら、試行錯誤をするかのように、

------微笑んだ。

茜色の夕焼けの光が、アカネの瞳に反射していた。

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