ウクレレで翔ぶ

著: 木本雅彦

1.

私には悩みがある。ギターが弾けないことだ。いや別にギターが弾けないから
といって、普通は人生に頓挫したりはしない。しかし困ったことに、私はギター
部員だ。ギター部員なのにギターが弾けないということは、かなり悩ましい事
態だ。だけど私はギター部を辞めない。ギターは弾けないが他の楽器は弾ける
からで、そしてそれはギターに決して負けず劣らない素晴らしい楽器だからだ。


ウクレレである。


柊依子はギター部の部室の扉をバタンと開けた。

右手にはぺったんこの学生鞄、左手には茶色の年季の入ったウクレレ。両腕を
大の字に拡げて入口を占領し、自分の存在を大きくアピールした。私は今日も
やってきたぞ、と。

「よう、ウクレレ! 性凝りもなく現れたか。てっきり今頃は中間試験の成績
表に押し潰されて、地面の奥底に埋もれているかと思ったぜ」

秋のど真中、試験が終わって結果も返って来て、それは抑圧と挫折であると同
時に、開放をも意味するのだ。それなのにそれなのに、部室の机に寄りかかっ
た男はあっさりと開放感を打ち砕いてくれた。だけど自称『大人の女』の依子
は必死に耐える。耐えに耐えて、一言だけ。

「ウクレレ言うな」

「なんだよ。音楽仲間のあいだじゃあ、それぞれの担当パートで呼び合うなん
て普通だろ?お前はウクレレなんだから、ウクレレでいいんだよ。それともあ
れか?ウクレレ嫌いなのか?お前の楽器に対する愛情はその程度だったのか?」

依子は楽しそうに笑う松代孝治を無視し、部屋の奥のスチール製の棚に押し込
まれている楽譜を漁りに行った。

ギター部は決して大きな部活ではない。全学年集めても十数人だから、むしろ
少人数だと言えるだろう。そのうち大学受験を控えた三年生は、秋のこの時期
はほとんど部活に来ないし、幽霊部員も何人かいたから、本当に活動している
部員は十人を割っている。ちなみに女子部員は依子一人だけだ。もちろんウク
レレを弾くのも依子一人だけだ。

では他の部員はどうしているのかというと、それはもう格好良さでは世界でも
五本の指に入るであろう、エレキギターに走っているのである。エレキと言っ
ても若大将系ではなく、もちろんロックだ。そうなるとギターだけで済むはず
はないので、部員の中にはベースをやっている奴もドラムをやっている奴も、
キーボードをやっている奴もいる。そいつらがグループを組んで演奏する。ロッ
クバンドという奴だ。女性から見て、ド貧乏で甲斐性無しでもいいからつき合
いたい男性の職業でこれまた五本指に入るであろう、ロックバンドだ。

ロックバンドと言えば、髪を染めたりツンツンに立たせてみたりするのが普通
だ。しかし、ギター部部長である松代孝治を中心とした「エクスデス」という
バンドのメンバーは、いたって普通の大人しい髪型である。

ところが、普通の高校生の髪型の彼らがライブをやったりするとえらい人気で、
隣の隣の市の女子高の生徒までツアーを組んで見に来たりする。何故か。要す
るに顔が良いのだ。それもちょっと良いどころじゃなく、メンバー全員が揃い
も揃って、化粧や衣装なんて余計な飾りだと言わんばかりの美形なのだ。

とは言え、やはりロックという以上、学年主任とかその類の堅物教師などには
目を付けられるだろうと思われる。ところが、そっち方面も全然問題ない。何
故か。要するに成績が良いのだ。それもちょっと良いどころじゃなくて、メン
バー全員が揃いも揃って、学年トップクラスという秀才なのだ。

是非とも友達にはなってもらいたくないタイプの人種だが、これがまた性格と
いうか人当たりも良いので、友達も多い。人気者だ。

だけど依子は知っている。彼らの致命的な欠点であり欠陥であり、弱点である
点を依子は知っている。たとえ世界中の全員が認めなくても、依子は分かって
いる。

------こいつら、ヘタクソだ。

ああああああああああっ!どうしてこんな下手糞な奴が大人気で、音楽歴十年
の私が日陰者にならなきゃいけないのよおおおおっ!

灰色のスチールの棚の前で、手垢と日焼けで隅が黄色く変色している楽譜を物
色しながら、依子は心の中で絶叫した。

「そういやさあ、なあウクレレ」

「ウクレレ言うな」

「音楽祭まであと一週間だけど、演る曲決まったのか?」

うっさいな、だから今考えているんじゃんかよ。

「なんなら俺たちのバンドに混ぜてやってもいいぜ。後ろの方でコードを鳴ら
しているだけならな」

孝治の後ろのほうで、他のメンバーも騒ぎだす。

「ドラムの隣あたりに並ぶかあ?」

「俺の泣きのギターアドリブソロのバックで、チャカチャカ弾かせてやっても
いいぜえ」

何がアドリブよ。プロが弾いているのそのままパクっているだけじゃん。しか
も簡単なところだけ。そんなのと一緒に演奏できるかっ。

眺めていた楽譜を棚に戻して、隣の楽譜を引き出した。

「そうは言っても、ウクレレの音だと、なあんか弱いつうか地味なんだよな。
音も小さいし」

「こいつ身体も小さいからな。小さい身体で小さいウクレレ持ってステージに
立ったりしたら、おい随分遠くに立っている奴がいるな、とか思われるんじゃ
ないかねえ」

がまん、がまん。

楽譜の表紙のボール紙をめくり、最初のフレーズを指でなぞって追ってみる。
ソロで弾くのは無理かなあ。

「しかしあれだよな。お前のそのウクレレも、いい加減ボロボロだよな。兄貴
から貰っただかなんだか知らないけど、そろそろお払い箱にしたほうが良いん
じゃないか?」

「だいたいさあ、妹にウクレレ仕込む兄貴ってどうなんだかな。なんかセンス
が狂ってんじゃねえの?」

限界である。依子の頭から炎の柱が噴出した。

持っていた楽譜を閉じて構え、縦方向に回転を付けながら手首のスナップを大
きく効かせて投げつけた。楽譜は手裏剣のように飛んで行き、孝治の側頭部に
命中した。

「お兄ちゃんの悪口を言うなあっ!」

「っいってーな!何すんだよっ!」

「ひとのウクレレにケチをつけて、さらにひとのお兄ちゃんにまでケチ
つけるかあっ!」

「お前ブラコンかあ?兄貴に貰ったからって、後生大事にウクレレ続けること
ないんじゃねえかよ。今からギターに転向しても良いんだぜ」

「うるさいうるさいうるさい。ウクレレ聞かせてやるっ、私の演奏でビビらせて
やるうっ!」

「おもしれえ、やって見せてみろやあ!音楽祭、楽しみにしてるぜ」

「おうっ。楽しみにしてろおっ」

売って、買って、ぶつけた言葉と切った啖呵が自分の首を締めていく。音楽祭
を一週間後に控え、依子の戦いが始まった。



「で、勝負になったわけね」

「勝負っていうほどのものでもないんだけどね」

同じクラスで文芸部所属の三村真由美と並んで歩く、学校からの帰り道である。
すでに日没は何かに追われるように早くなっている時期で、なんとなくでも部
活をこなして帰路につくころには、辺りは薄暗くなっている。やっぱり女の子
一人は良くないよねということで、二人で一緒に帰ることにしているのだ。

「勝ち負けはどうやって決めるの?やっぱ人気投票?」

「勝負じゃないってば」

「そうよねえ、人気投票やったって、依子が勝てるわけないものねえ」

「どうしてあいつら、人気があるんだろうねえ」

「だって顔が綺麗だもの」

そうだった。文学少女は美少年が好きなのだった。更に美少年が数人集まって
バンド活動なんてしていたら、音楽以外の方法でもお互いを磨き合っているん
じゃないかしらとか、お耽美な想像を膨らましているに違いないのだ。

「だけどさ、マユ。あいつらって、そんなに上手じゃないと思わない?」

『そんなに上手じゃない』というのは、依子にしては控えめな聞き方のつもり
だった。

「そんなの、いいのよ。なんて言うのかな、ライブの会場の空気の中に入っちゃ
うとね、お祭りの中にいるような気分になるの。一体感なのかしら。

しかもステージの上には美形が並んでいるのよ。美形が汗を飛ばしながら恍惚
の表情をしているのよ。これがエクスタシーじゃなくて、何なのよ」

聞いた相手が悪かった。でもこれがほとんどの聞き手の真実かもしれない。演
奏なんてそれほど大事じゃなくて、非日常の空間にトリップできるかどうかが
重要なのだ。そのための美形とロックの組み合わせなのだ。

これじゃあ勝ち目無いよなあと思った。やっぱウクレレじゃあ音楽祭で浮くか
なあ、でもやると言っちゃったしなあ、『禁じられた遊び』でも弾いてさっさ
と逃げ帰るかなあ。

依子の気分は早くも敗者のそれになりつつあった。

「がんばなよ、依子。ウクレレ好きなんでしょ?」

「う……うん」

「ギター部なのにギター弾かずにウクレレ一直線なくらい、好きなんでしょ?」

「うー、うん……まあ」

「ていうか、ウクレレ弾ける人って、ギターも弾けるものなんじゃないの?」

「そうらしいんだけどね。少し練習すれば、弾けるようになるって話には聞く
んだけど、なんかね、折角お兄ちゃんから貰ったウクレレなんだから、これを
弾くことを大切にしなきゃいけないような気がしちゃっているのよね」

「依子、ウクレレっていうより、お兄さんが好きだもんね」

「……うー」

「お兄さんに相談してみたら?」

「お兄ちゃん、今うちにいないもん」

依子の兄の満は、実の兄ではない。依子の母親が再婚した相手の息子、いわゆ
る義兄だ。しかし母の再婚当時、依子はまだ小学校に上がる前だったから、あっ
という間に満になついてそのままお兄ちゃん子として育っていった。ブラコン
と言われても仕方がないかもしれない。この高校を選んだのだって兄が通って
いたからだし、ウクレレを弾き始めたのだって兄に遊んでくれとねだったらホ
イと渡されたのがきっかけだった。

その兄は現在実家を出て一人暮らしをしている。実家からそれほど離れていな
いところなのだが、めったなことでは家に顔を出さない。それなりに仕事が忙
しいようだ。

「これ口実にして、押しかけて行っちゃいなよ」

「あー、それも良いね。そうだね、兄ならビシぃっと妹のピンチを救え!ってね」

「頼もしいお兄さんでよかったね」

「うんっ」


真由美と別れる角に差しかかり、「じゃあね」と手を振りながら、依子は左に
曲がった。二人とも、ここから家までは三分ほどしかかからない。

次の土曜日は、兄のところを襲撃しよう。いきなり行って、見たこともない変
な女がシーツにくるまってたりしても構うものか。自分には妹権があるのだか
ら、そんな女は追い出してやればいい。兄には妹のピンチを助ける義務があっ
て、自分はいまピンチなのだ。民法で保証されている妹権に基いて、兄を一人
占めしてやる。

依子はそんなことを考えながら、意気揚々と大きく腕を振って自宅へと向かった。

最後の角を曲がった時だった。視線の先、ずっと先、でもこれから自分が目指
そうとしている辺りに人込みが見えた。

うちの前? いや、隣りのうちかな? どうして人だかりが出来ているのだろう。

依子は走りだした。近付くにつれて、焦げ臭いにおいが鼻にしみてくる。嫌な
予感がしていた。

道路を埋める群衆の山から少し離れたところに、依子の母親が立っていた。依
子を見付けて手を振って呼び寄せる。

「ああ、依子、大変なのよ、お隣りの竹下さんのおうちが火事で焼けちゃった
のよ」

良かった。隣りの家だったんだ。

「お母さんは怪我とか火傷とかないのね、大丈夫なのね」

「私は大丈夫なんだけどねえ。おうちがねえ……」

野次馬が見ているのは骨組みしか残っていない竹下さん宅だけではなく、こち
ら側にも半分ほどはみだしてきていた。

夕方のほの暗さの中に、いびつなシルエットが浮び上がる。依子の家の、隣家
に側した三分の一が綺麗に焼け落ちていた。

依子は脇に抱えていた空っぽの鞄を地面に落っことした。


私には悩みがある。帰る家がなくなったことだ。これは結構困ったぞ。

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