タイ旅行記

2001年9月4日から9月8日まで、タイ王国に家族と旅行してきた。行った場所は バンコク周辺とアユタヤである。そんなわけで、簡単ながら旅行記などを。
旅行記というよりぼやき日記ですな。

一日目 (9月4日)

出発は18:30のJALだったけど、行ってみたらAAとのCode Shareだった。といっても 機体はJALだけど。

今回は自分にとって二つの点で始めての海外旅行である。一つはツアー旅行である こと。もうひとつはアジア圏であること。ツアーなので事前準備が全然必要なかった から楽ではあったけど、飛行機会社を選べないから、スターアライアンスとかいう 指定もできない。だからUAのマイルも溜らない。

さて今回は両親と祖母との計四人での旅行である。他の三人は実家から来るので、 成田のロビーで合流することにした。NEXのチケットを買っている時間がなかった ので(昔はホームで買えたのになあ)、そのまま列車に乗り込んで車内で立って行く。
成田のラウンジで家族と合流。チェックインする。昼食を食べていなかったので、 軽くカフェモカとベーグルサンドを食べる。
添乗員は現地に行かないといないので、その後の飛行機に乗るまでは、まあいつも の感じで。両替は成田の銀行で済ませておく。
普通に飛行機にのり普通に到着。

BKKに着いたのは現地時間で22:40(日本時間で24:40)。ゲートを出ると、ツアー客を 待つガイドが山のようにいる。ガイドさんと合流。でかい観光バスでホテルに移動 する。

ホテルの部屋で落ち着いたのは現地時間で25:00。部屋中タバコの匂いがしたので、 部屋を変えてもらおうかとも思ったけど、眠かったのでそのまま眠る。
でもって明日の起床は6:30で、8:00にはロビーに集合でツアー開始の予定。 冗談じゃない。
でもまあ仕方がなかろうか。

それにしても、どうしてうちの両親は、お菓子とか持って来るんだろう。どう考えても 現地調達のほうが安いと思うのだが、本人たち曰く「現地の食べ物は口に合わないかも しれないから」だそうだ。だった海外なんぞ行くな。


二日目 (9月5日)

タイの二日目 バスで観光。
バスの中でガイドのおばさんの説明が入る。このおばさんはどうもタイに帰化 した日本人かなんかのようで、話しの節々に現地的考え方が入るように思える。

バンコク市内の名物はバイクタクシーらしい。たしかにバスの窓から いかにもOLの格好をした女性がバイクの後ろに乗って走っていくのが見える。

インターネットカフェみたいな店を見掛けた。0.75B/Min。

どうも、この国ではヤクザがいない代りに警察がヤクザの代りをやっているよ うだな。日本でも昔はそうだったと思うけど。

バスから街の景色を眺める。 八木アンテナにまじって、ちらほらパラボラも見える。当然のことながら、 角度は上向き。

看板のパソコンとかURLは、そこそこの数。市街地だからかもしれないが、 それなりにパソコンも普及しているようだ。しかし、予想されるに貧富の差は 激しいのだろう。少し市街地を離れると、いかにも昔ながらという建物(という にはおこがましいような家)が増えてくる。

最初のコースは、エメラルド寺院→王宮→ラマ五世博物館。

寺院だが、似たような意味付けのものは日本にもあるのだが、その表現が まるで違う。仏教がタイ文化とどのように混って今の形になったのかは、 興味のあるところである。

王宮と博物館は、まあ普通。 タイ王朝の歴史においては、 アンナという5世の家庭教師の果した役割りがどうやら大きそうだが、 もしこの家庭教師 がバカだったらタイという国も変っていたかもしれないと考えると、やはり世界を 動かしているのは女性なのではないかと思う。

しかしだな。遺跡、寺院、王宮、なんでもそうだけど、作った為政者がいる一方で そいつの悪口を言っていた庶民も多数いるはずなわけで、それは今の政治家も同じ わけだ。同じ悪口言われるのだったら、何か残した方が後から誉められるぶん良い なあ。でも俺は死んだ後で誉められても嬉しくないので、どっちでも良いや。

それにしても、 まったく理解できない言語が身の回りの標準言語という環境がこんなに苦痛だとは 思わなかった。いや、日本人多いんだけど、たまに英語が聞こえると安心する。

昼食はチャイニ−ズ。飲茶と銘打っていたが、全然飲茶ではなく、ただのコ−ス 料理だった。味付けは微妙にタイの香りがする中華料理。多分日本の中華街が 日本風中華なのと同じなのだろう。

午後はショッピング。てっきりモ−ルのようなところにつれていかれて、 ほれ買ってこいかと思ったら、最初は宝石店に連れていかれる。これがツア− で有名なアレか。なんにしても、俺は宝石も何も関係ないので、無視。

モ−ルならラジオシャックくらいあって、PSIONってどうよという話し くらいできるかと期待したのだけど、駄目だった。

次に連れていかれたのはタイシルクと雑貨店である。ここで帽子を持っていない ことに気がついたので購入する。350Bなので千円ちょっと。日本円でもそれほど 安くはない。まあ良いかという気分だけど。

父親が陶器を買おうといて店員に質問したけど、相手は片言の日本語なので 通じなかった。しかたがないので英語で聞いてあげたら、もっと通じなかった。 がんばれ店員。

次は免税店に連れていかれる。しかし特に買うものもないので、一周して店を出る。 あとはすることがない。家族一緒というのも行動しづらいので、父親が別行動を 提案するが母親は応じない。なんだかな。 結局免税店が入っている建物(これはモ−ルと言って良かろう)の中に入っている 伊勢丹の本屋とか食品売場とかを回っておしまいにする。 本屋では地図を買う。これは海外に行くといつもやっていることで記念の代わり。 食品売場では今日の夜食と身の回り品を買う。 日用品は安いのだけど、それ以外はそれほど日本と変らないような気がする。

夕食に向う途中でパッポン通りの入口のところを車窓から見る。こ、これが あこがれのパッポン通りか、と思いつつ車は通りすぎる。

夕食はタイ風しゃぶしゃぶとなっていた。ようするにいわゆるタイスキ。
で、ここで問題が。ツア−は全部で十人なんだけど、うちの一家四人以外は 全部ペアで来ている人達だったんです。で、タイスキのお膳は二つ。普通だと 五人と五人に分れるわけですが、それができない。まあ結局4人と6人に 落ち着いた訳だけど。
味は良い。美味しかった。ちょっとあわただしかったのと、疲れて食欲が それほど激しくなかったというのはあったけど。

夕食後、そのままホテルに戻って、解散。明日の集合は7時だとさ。

早く寝ないとと思いつつ、昨日倒れたのでモデムの準備をしてネットに接続 して、仕事を少々。


三日目 (9月6日)

三日目。

出発直前にいきなり雨が降ってくる。

ところで一部の皆様に朗報である。タイには「女子学生の制服」というものが 存在している。日本の高校生みたいに変な生き物に進化していないので、 ほど良い萌え加減である。当然男子の制服もあるのだが、それは興味がないので 無視する方向で。

雨は降り続き、日本の感覚だとどしゃぶりになる。スコ−ル?と思ったら、 雨期の本格的な雨降りらしい。

雨の中をバスが走る。一時間半ほど走り(その間寝る。気がついたら田園風景に なっていた)、快晴になり、 最初の目的地のヤシ砂糖作りデモ現場に到着。ながめる。なめる。 土産の砂糖を買ったりココヤシ水飲んでみたり。トイレで5B払ってみたり。

タイの町には野良だかなんだかわからない犬がうろついている。ところがどうも 気合いが足りないというか半分死にそうな連中ばかりだ。

水上都市から水上マ−ケットめぐり。英語だとFloating Marketだけど、 本当に水に浮いているわけではない。元はおそらく沼地だと思われるが、そこに 運河を張りめぐらせて、船を主な移動手段にして暮している町である。 で、水上都市というのはファンタジ−系のRPGとかによく出てくるのだけど、 実際にぐるりと巡ってみるとイメ−ジが急速に固まってくる。
特に南国の水上都市。椰子の木に囲まれた運河である。

次、チ−ク材細工工場の見学。職人が仕事しているところを客に見せるという 奴である。 ほとんど修学旅行生の気分だ。

ナコン・パトムのチェディ。最初チェリ−と聞こえたので、何よ?という感じ だったけど、チェディ(尖塔)のことでした。

あ、今バスの中から制服の女子学生がトラックの荷台に数名座っているのが見えま した。ドナドナドーナードーナー。彼女たちはどこに売られていくのでしょうか (酒落になってないって)。

ロ−ズガ−デン(要するに観光センターみたいな感じのところ)にて昼バフェ。 その後は場内観光してショウを見る。 ま、ショウですので特にコメントなし。 結婚式のショウとかムエタイのショウとかそんなの。場内アナウンスは英語だった のだけど、変に反響して全然聞き取れなかった。

帰りのバスの中でガイドさんがチェンマイ美人の話しをする。ええ知っています とも。有名ですから。色々な意味で。

チェンマイで幼な妻を12人も飼っていた日本人の話しとか、山岳地方の小数 民族の話しとか、その他バンコクの家の値段とかの生活事情なども聞けた。 地方に行くとマリファナをすすめられるという話とか。いいなあ。

その後、三十分ほど悩んだ結果、次のような結論を得ました。

こんな育成ゲ−ムはいかがですか?
まず主人公はバンコク市内に家を買います。そしてそこに現地妻を住まわせます。 妻はチェンマイのみならず、小数民族から選んでも良いでしょう。攻略の難易度 が異ります。
目的は現地妻に日本語や英語を教えたり、さまざまな教育を施したりしながら、 彼女を立派な女性に育てつつ、ラブラブな生活を送ることです。 最初はタイ語しか話せない彼女ですが、徐々に言葉を覚えていきます。 現地「妻」ですから、最初からナニしても構いません。ですが、言葉による コミュニケ−ションがどの程度とれるかで、ナニの燃えかたも変るというものです。
現地妻の年齢の初期値は13ということで、どうかひとつ。
特徴ですが、

さて、これを観光ビザでやらないといけません。したがって三ヶ月に一度帰国 する必要があります。その時に各パラメ−タがグラフで表示されるので、中間結果 を確認できます。
またタイ政府ににらまれないように、プレイヤ−の収入は円でえて、生活費は バ−ツで払います。これによって外貨がタイに落ちます(ゲ−ムだけど)。
どうよ?

夕食は海鮮料理、をうたっているけど普通の中華。 道路は渋滞。そしてそういうものらしい。


四日目 (9月7日)

四日目。

アユタヤ遺跡の見学という、これが本番みたいなものである。 ここまでの感想を正直言うと、このペ−スだと観光三日という今回のペ−スが 限界だな。これ以上長くなると体力がもたない。もっとも、その場合は観光の ペ−スが落るだろうけど。

ところで昨夜は一回目がさめた。変な夢を見たからだ。 昔つきあっていた女性が結婚するということで、その式の前日の光景だった。 高校時代の友人やらなにやらが、みんな集まっている。 どいつもこいつもそろってタイ的な微笑みをうかべて幸せそうな顔をしている。 その中で僕だけ微妙な顔をして、何も言えずにいる。 いや、微妙なんて嘘だ。何て言ってけなそうか、ぶち壊そうか、否定しようか、 そんなことで腹の中はいっぱいだ。 別に未練なんて全然ないのだが、どうして こんな不思議な気持ちになるのだろう。 目が覚めたあとも不思議な気分をひきずっていた。 これもタイの空気のせいなんだろうか。

そして朝、起きたら雷がごろごろ鳴っていて雨だった。

でもバスで1時間半移動するうちに小降りになって、クル−ザ−に乗ったら 晴れてきた。

クル−ザ−でアユタヤに向かう。数十人は軽くのれる、観光向けのクル−ザ−で あった。我々の他にも中国人の団体と白人が少々。 川幅は、う−ん、百メ−トルくらいが延々と続くという感じだろうか。

昼食はクル−ザ−の中でバフェ。

8時出発で、12時に到着という、4時間の船の旅であったが、ツア−の皆さんは 寝まくっていた。

船を降りて、バン・パイン宮殿に。要するに王室の別宅と迎賓館を兼ねた建物。

次、山田長政が暮していたといわれる日本人街の跡。といっても簡単な資料スペ−ス と売店しかない。山田長政は静岡の出身なので、静岡の人は愛着があるのかと 思われているようだけど、僕は別にない。だから興味もない。

はい次。

ワット・ヤイ・チャイモンコン。
実際に僧侶と尼僧が暮している寺院である。仏像の山。全ての仏像が微妙に違う。 タイでは墓に納骨するということがないので、死んだら一族が寄付をして仏像の 下に名前を彫るのだそうだ。これでその仏像が一族のものになるという感じ。 結局タイでは仏教が生活に密着しているが故に、ある意味practicalなものに なっているように思える。経済の流れの中に、寺院というものが普通に組込まれて いるようだ。主に寄付、御布施といった形ではあるけど。

次。

象とたわむれる場所。象たちに餌のバナナをあげてみる。子象の鼻をなでてみる。 ざらざら。

ワット・プラ・マハタ−ト
仏像の首がほとんど取られている。これはアユタヤに攻めこんだビルマの兵士が 略奪したものだ。つまり金品も重要だが、仏像というのも大事なもので、その中でも 頭の部分が一番重要だということ。 首のない像というものが、こうも凄惨なものか。 そして、これは味方を変えると、大事なものの更に上澄みだけを強奪したという 解釈もできる。

ワット・プラシ−・サンペット
三つの塔が立っている。現在ではアユタヤ王朝の国王の骨が収められているらしい。 世界遺産の一つだとか。 世界遺産ってなんだろう。遺産というからには残すわけだが、残すことにどれだけ の意味があるのだろう。それに例えば東京のビルなんか次々に立て替えているけど、 二十世紀の建築物は残さなくてよいのだろうか。

夕食はタイ料理。素朴な店構えの素朴な飯。しかしある意味これまでで 一番タイっぽかった。特にチリペッパ−のオイルが絶妙に辛くて良い。
ところはうちの家族にはあまり評判がよくなかったらしい。こういう食事を楽しめ ないと、旅の楽しみが半減するのではないかと思うのだけどね。


五日目 (9月8日)

最終日

朝は4:45に起きる。

朝食は全日バフェで、これまでは洋食系だったのだけど、今日は 軽くタイ風の麺を食べる。調味料を辛めにして、ほどよい感じ。これなら早くから 楽しんでおけばよかった。
あとは飛行機が8:45なので空港行って帰るだけ。 チェックインして出国ゲ−トの手前まで添乗員さんが付いてきてくれた。 大変だねえ。

とくに問題もなく飛行機は成田に着き、NEXで東京に向かう。東京で家族と別れる。 成田の駅で妹から電話がかかってきて、彼女の旦那の父親が亡くなったという 連絡が入って騒ぎになる。結局翌日に再度連絡をとるということで、その日は 別れた。


その後

帰国した日の翌日未明から、40度近い熱を出して倒れる。その後病院に行ったり したけど結局3日くらい発熱と下痢が続いた。タイというくらいで、最初デング熱か? と心配したけど、病院での診断は腸炎ではなかろうかというものだった。

感想

率直な感想として、ツアー旅行はもう嫌です。スケジュールがタイトすぎて、遊びに 行っているのか疲れに行っているのか分からない。しかも無駄な場所の観光が多すぎる し。今回に限れば、アユタヤ遺跡が一番の目的だったわけで、アユタヤ付近のホテルに 陣どって、半日観光半日だらだらするというのを繰り返しで良いような。
あと日本語も英語も通じない環境というのが、ここまで苦痛だとは思っていなかった。 まず日本語が通じないと分かった瞬間に頭が英語モードになるのだけど、英語は通じ ない。片言の日本語が通じる場合、簡単な日本語を選びながら話すエネルギーと 英語をフルパワーで話すエネルギーを比べると、後者のほうが楽だということらしい。
そんなわけなんで、次からはもっとのんびりした旅行を希望。