魔法使いの夏休み

著: 木本雅彦

1.

「三十歳まで童貞を守ると、魔法使いになれるんだよ」

誰かがそんなことを言っていた。バカバカしいと思った。

そんなことあるはずはないし、あったとしても自分には関係がないと、二十五
歳の僕は思っていた。

時間が流れて三十歳の誕生日。僕は本当に魔法使いになった。

高校時代の同級生が集まって飲もうという話になった。みんな今年で三十歳に
なるから、記念にということだ。

集まった中にはスーツ姿もいたし私服の奴もいた。みんなそれぞれ輝いていて、
充実した顔をしていた。こいつらは魔法使いじゃないんだろうなと、僕は思っ
た。

だから意地悪をしてやろうと思い、魔法を使ってやった。突然ビールのコップ
が次々に倒れて、中のビールが彼らの服に飛び散った。彼らは慌てていた。ザ
マアミロと思った。

それから一年が経とうとしている。

僕はまだ、魔法使いだった。


久々にとれた夏休みに、久々に祖父母のいる田舎に帰ろうと思ったことに、特
に理由はない。正月に会った時の祖父母が、妙に年老いて見えたのが気になっ
ていたというのはあったが、やっぱり気まぐれというのが本当の理由だろう。

それでも祖父母に顔を見せるのも孝行のうちだという意識はあったから、田舎
に向かう電車の中では、仕事で活躍している話を二百パーセントくらいで話し
てやろうとか、家の掃除や力仕事を手伝ってやろうとか考えながら流れる景色
を眺めていた。

灰色のビルが減って民家になり、山景色になったと思ったら再び民家が現れ小
さな街の風景になる。そんなことを三回ほど繰り返したところに、僕の祖父母
は住んでいる。電車を降りてそこからはバスで二十分。更に徒歩で十分。公道
から玄関まで五十メートルはあるだろう。

祖父母は昔からここに住んでいたのではない。祖父は昔は県議会の議員をして
いたこともあるそうだ。隠居して幼い頃に暮らしていた田舎に引っ越して、い
や正確には戻って行ったと言ったほうが良いだろう。僕の物心がつく前のこと
だ。

だから僕の両親は都会育ちで、田舎という言葉がピンとこないらしいのだが、
僕の記憶にある祖父母は、田舎の祖父母だった。大きくて古い家に住み、庭の
片隅で野菜を育てて暮らしていた。

汗を拭きながら辿り着いた祖父母の家は、相変わらず古くて大きかった。突き
抜けるような夏の空の下で、静かに座していた。

「じいちゃん、ばあちゃん、来たぞ」

呼び鈴も押さずに引き戸をガラガラと開けた。どうして田舎の家は鍵をかけて
いないのだろう。奥から声がする。

「おう、よく来たな」

靴を脱いでいると、祖父母が顔を揃えて現れた。

「ゆっくりしていけや」

「ご馳走を用意するからねえ」

そして祖父母に孝行しようと思っていた当初の予定は、瞬時に崩れることにな
る。居間に通された僕は、有無を言わさずのお大尽的扱いを受けた。

「スイカ食べるかい」

「水羊羹食べるかい」

「お茶を入れようねえ。麦茶でいいかね」

「貰ったお菓子があったんじゃないか」

これでは本末転倒だと思った。

「じいちゃんもばあちゃんも、僕は別にお客さんじゃないんだからさ」

「何言ってんだね。せっかく来たんだから、のんびりしなさい。東京じゃ仕事
ばっかりしてんだろ?」

「そんなことないよ……いや仕事はちゃんとしているけど。それよりも僕が手
伝えることとかない。高いところのものを取るとか」

「高いところのものを取るのに何で小さな孫に頼むんだい」

「あのねえ、僕の方が今じゃ身長高いんだから」

祖父母にとっては僕はまだ子供と同じようで、お菓子を与えて機嫌を取らない
と泣き出すとでも思っているらしい。

僕は庭に出ることにした。仕事がなければ自分で探すまでだ。僕は孝行をしに
帰省したのだから。

縁側からサンダルを突っかけて庭に立つ。柿の木は相変わらずくねくねと枝を
伸ばし、厚い葉っぱを茂らせていた。つつじや山吹に混じって、植木鉢には朝
顔やアロエが植わっていた。盆栽の類は一切ない。「草木は育つままに育てる
のがいいんだ」というのが祖父の主張だった。

家の裏手に回った。急に空気が冷たくなり、同時になんとなく湿ったものにな
る。土の質も表庭とは違う踏み心地だ。多分細くて青白いキノコの一本も生え
ているんじゃないだろうか。

勝手口を通り過ぎようとした時に、ドアの上の電球が割れているのに気がつい
た。僕は勝手口を開けて首だけ突っ込んで、大きな声で叫んだ。

「ばーちゃーん。勝手口の電球が割れているけど、いーのかー?」

しばらくして「はいはい」という声と共に祖母が現れた。

「ああ、それかい。換えないといけないねえ」

「換えの電球はあるの?」

「ないねえ」

「じゃあ僕、買ってきてやるよ」

僕はそう言うと、表庭に駆け戻り、縁側から居間にいる祖父に声をかけた。

「じいちゃん、自転車借りるよ」

「なんだ、どこか行くなら乗せていってやろうか」

おいおい。子供扱いもここまで来るとなあ。

「冗談っしょ。一人でいけるって」

僕は玄関から再び裏手に回り、停めてあった祖父の自転車を引っ張り出した。

祖父の自転車は古い。どのくらい古いかというと、ブレーキがワイヤーで繋がっ
ているのではなく、金属棒のギミックで繋がっているというくらい古い。でも
良く手入れされていて、乗るのに支障はない。

昔はやたらと高く感じたその自転車も、今では楽々と跨げるようになった。ぐ
いとペダルに力をかけて、公道に続く坂道を一気に走り降りた。

両脇の木の影になった小道の空気が涼しく気持ち良い。突き当たりの公道まで
速度を落とさず重力に身を任せた。

突き当たりを左。自動車が来ないことを確認しようとカーブミラーに目をやっ
た。ミラーがない。

これだから田舎ってのは!

僕はブレーキに力をこめ、ドリフトぎみに車体を斜めにする。しかしこの自転
車は普段乗っているMTBとは勝手が違う。ママチャリが出現する以前の、じ
いちゃんのチャリ。いわばジイチャリだ。Gチャリでも良い。そっちのほうが
格好良い。

Gなら重力なんかに負けんじゃねえよ。

キキキキキキザザザザザザザザ

ぎりぎりの角度でカーブを抜けて体勢を立て直し、舗装された公道に出た。

左手は山肌の壁、右手は田んぼと畑。そして上空は天井のない青い空。

「ひゃほ------------------------------------------------っ!」

僕は思わず叫んでいた。



駅前の商店街の電器屋で埃をかぶった四十ワットの電球を買い、帰る前に駅前
を一回りしようかと再び自転車に跨った時だった。駅の前のバス停に立つ女性
の姿に気がついた。

水色のワンピースに白の帽子という出で立ちで、いかにも避暑に来たお嬢様と
いう感じだった。横顔なのではっきりとは分からないが、すっきりとした顔つ
きのように見える。

もっと良く顔を見たいな、こっちを向かないかな、と思った。だから僕は魔法
を使うことにした。人差し指を立ててくるりと一回転させながら、願いを念じ
る。

------あの女性が振り向きますように。

彼女が僕の方に振り向いた。成功だ。やっぱり美人だ。僕の予想に狂いはなかっ
た。

予想していなかったのは、その美人がそのまま僕に向かって歩いてきたことだ。
でも旅行者だとしたら、自転車に乗っていかにも地元民の僕に道でも聞こうと
いうのかもしれない。あるいはバスの路線を聞こうというのかもしれない。

だけど僕は地元民じゃないから、どちらも答えられない。どうしようと思って
いる間にも、女性は近付いてきて、更に予想していなかった言葉を発した。

「コウ君?」

確かに僕の名前は孝司だけれど、「コウ君」なんて呼び方をするのは家族くら
いのものだ。僕にお姉さんなんかいたっけ?いやいや実姉がいたら忘れるはず
はない。僕は失礼とは思ったけれど、女性の顔をまじまじと凝視めて……、あ
あっ!

「ユッカ姉!」

「そ。久しぶりね」

そこにいたのは認識してしまえば紛れもなく、従姉の有美香、通称ユッカ姉だっ
た。

「でも、ユッカ姉って、結婚したんじゃ」

途端に彼女の顔が厳しくなった。

「知らないわよ、あんな奴。いつも偉そうにしてさ。仕事から帰ってきたと思っ
たら、毎日酒飲んでぐだぐだぐだぐだぐだぐだと愚痴ばっかり言ってんの。つ
きあってらんないわ」

「で、どうしたのさ」

「放っぽって来ちゃった」

夫婦喧嘩かよ。つきあってらんないのはこっちだよ。

「だけどまさかコウ君も帰省しているとはね。自転車なんでしょ?乗せてってよ」

「ちょ、ちょい、ユッカ姉って」

ユッカ姉は僕の言うことなんか聞こえていないかのように、荷物を自転車の前
カゴに乗せた。

「ほら、早く早く」

後部車輪の台座に座らんとしている。

「しょうがないな、ちょっと待ってよ。この自転車、後ろに人が乗っていると
跨げないんだから」

僕は自転車に乗り、ユッカ姉が乗りやすいように車体を傾けた。ユッカ姉は横
座りに腰掛けて、僕のお腹に手を回し、片手を前方に向けて突き出した。

「行け-----------------------っ!」

僕は力一杯ペダルをこいだ。

行きよりも重いペダルと、背中に密着したユッカ姉の柔らかさとで、僕は行き
の数倍は汗をかいて家まで帰り着いた。



その夜はもうほとんど宴会状態である。祖父母は最初のうちは勝手に家を出て
きたユッカ姉を諭そうとしたが、孫が帰ってくるのは無条件に嬉しいのだ。結
局ユッカ姉に適当に丸め込まれて、「まあ折角来たんだからゆっくりしてきな
さい」ということになった。

それに遠慮する気持ちなんか欠片も見せず、ユッカ姉はビールをたらふく飲ん
で上機嫌だった。上機嫌なのは酒の相手が出来たじいちゃんも同じだ。僕は下
戸なので、こういう時には役にたたない。じいちゃんは「お前と酒を飲むのを
楽しみにしてたんだがなあ」と言うけれど、こればっかりはどうしようもない
と思う。

それだけにユッカ姉とビールを注ぎ合ってくだらない話をするのが、とても楽
しいようだった。

「どうだい、有美香は近所の人とは仲良くやってるかね」

「そりゃあもう、近所の奥さん連中ともマブダチよ。舎弟の二、三人もいるく
らいよ」

「それは大きく出たなあ。ハッハッハ」

ユッカ姉は昔から豪快だった。僕より二つ年上で、親戚の同年代の中でも年長
組だったせいか、男の子をも率いて率先して暴れ回っていた。スカートをはい
ている姿なんか見たこともない。でも高校生になったくらいから急におとなし
くなって、なんていうか……うん、綺麗になった。年に数えるほどしか会わな
かったけれど、会う度に綺麗になっていくのが分かって、中学生だった僕はド
キドキしたのを覚えている。そうは言っても、親戚のガキ共が集まれば、やっ
ぱりそいつらを束ねて遊びまくるんだけれど。

当時のユッカ姉はここと同じ県内に住んでいて、地元の大学を出て地元の会社
に入り、同僚と職場結婚した。そして結婚相手の転勤について、二つ離れた県
まで引っ越していった。結婚の際には色々あったらしいんだけど、ユッカ姉の
いつものパターンで、周囲の意見なんかも強引に押し切ったらしい。それだけ
二人は愛し合っていたってこと……なんだと思う。

それなのにユッカ姉は今、旦那を放って帰省してきている。まあ、夫婦喧嘩は
犬も食わないというから、しばらく様子を見ているうちに熱が冷めるとは思う
けどね。

じいちゃんとユッカ姉はさんざん飲んだ挙げ句、二人して畳の上で寝息をかい
ている。

僕は立ち上がって、二人分のタオルケットを取りに行った。

タオルケットをかけてあげるとき、ユッカ姉は「バカ……」と小さな寝言を漏
らした。


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