魔法使いの夏休み

著: 木本雅彦

2.

ぐえ。

僕はいきなり背後から首を締められた。

「だーれだ?」

「ユッカ姉!ユッカ姉!それ普通、目を隠すんだって。首は首はぐええ」

僕が床をドンドン叩くと、頚動脈を圧迫していた指が外れた。後ろから顔を出
したのは、舌を出したユッカ姉だった。

「なーんか暇ねえ」

「暇なら働けよ。何しに来たんだよ」

「コウ君は何しに来たの」

「僕は……じいちゃんばあちゃん孝行をしに」

「してないじゃん」

確かに今の僕は縁側に腰掛けてぼーっとしていた。昨日電球を買いにいって交
換した以外は、何の労働もしていない。させて貰えないのだ。「ゆっくりして
な」の一点張りだ。

「子供扱いも困ったものよね」

「もう子供でも若者でもないんだけどなあ」

「あ、ひどーい。私はまだまだ若いわよ?」

「ユッカ姉が若いんだったら、僕もまだ若いことになるね」

「そうよ、私たちはまだまだ若いの!青春なのよ」

人妻が何を言うのかね。しかも勝手に家でした放蕩人妻が。

「そうだ」

ユッカ姉がパンと手を打った。これは何か良いことを思いついた時のユッカ姉
の癖で、その良いことってのは大抵周囲の人間にとっては迷惑なことだ。

「山に行きましょう」

「いってらっしゃい」

「コウ君も一緒よ」

「いやあそれほどでもないよ」

「意味の分からない誤魔化しかたはやめなさい。行くのよ」

はあ、そうですか。

こうなってしまったユッカ姉に逆らえるはずもなく、僕は着替えて山に行くこ
とになった。半袖半ズボンに虫よけスプレーをたっぷりと振りかけて。



「じーちゃーん、コウ君と山に行って来るからねー」

「おう。気をつけてな」

僕たちは家を出た。真夏の日差しの真下にあって、流れる空気は肌に心地よい。

ユッカ姉は昨日と同じ水色のワンピースに、白の帽子の組み合わせだった。やっ
ぱり綺麗だよなと思う。僕の視線に気がついたユッカ姉が言った。

「何? 昨日と同じ服だと思ってんの? 大丈夫よ。下着は換えているから。見る? 
ほれほれ」

「なっ。やめてよ、まったく」

「コウ君ったら純情ねー。昔はそんなことなかったのに」

「なんだよ、それ」

「覚えてないの? 小学生の頃、みんなで雑魚寝したときに、私の胸を触って
来たじゃない」

……覚えてる。僕の恥ずかしい過去の一つだ。膨らみ途中のユッカ姉の胸は柔
らかくもあり、まだ堅さも残りって、うわ何思いだしてんだろう僕は。

黙っている僕に対して、ユッカ姉は面白そうに続けた。

「赤くなってるねー。やっぱ覚えているんだ。いやあ、小さい頃のコウ君はエッ
チだったねー。あの調子じゃ、相当遊んだんだろうねー。女泣かせだねー」

放っておいてよ。どうせ僕は魔法使いだよ。

ユッカ姉はにやにやしながら歩いていった。僕はこれ以上からかわれるのは堪
らなかったので、話を変えようと思った。

「あ、ねえ、飲む物買っていこうよ。この暑さだと水分補給しなきゃ」

丁度通りがかった雑貨屋に、無理矢理ひきずりこんだ。

冷えたラムネにも惹かれたけれど、持ち歩きできないので、ペットボトルを選
ぶことにした。僕はミネラルウォーターを探したけれど、見つからなかったの
で、

「おばちゃん、水ある?」

と聞いたら、おばちゃんは「水が欲しいのかい。ほれ」と水道の水をコップに
注いで渡してくれた。まあ考えてみれば、ここでは水道から出てくるのが湧水
だから、ミネラルウォーターであるとも言える。僕はとりあえずそれを有り難
く飲み干して、緑茶のペットボトルを買った。ユッカ姉はウーロン茶。

「新婚さんかい?」

僕は驚いたけれど、ユッカ姉は「若く見える」と言われたものと理解したのか、
ニコニコしていた。否定も肯定もしなかった。だから僕も何も言わず、ただへ
らへらと笑っていた。

店を出て、山の方に向かって歩く。舗装されていない土がむき出しの道を、一
歩一歩踏みしめていく。ユッカ姉はサンダルのくせに、平気な顔をして歩いて
いる。途中、落ちていた木の枝を拾って、ひゅんと振り回しながら進んでいっ
た。

細いケモノ道を数メートル抜けると、視界が開け、川原に出た。大きな石がご
ろごろした川原だ。この石が何キロも川を流れていくうちに、砂粒になって海
岸を埋めるのだろう。川の幅は五メートルくらい。それも海に近付けば数十メー
トルになるのかもしれない。

川にせり出した石の一つを見つけて、ユッカ姉は座り込んだ。僕もその隣に場
所を見つけて腰を下ろす。

ユッカ姉はぼんやりと川の水が流れるのを眺めていた。綺麗な横顔だと、僕は
やっぱり思った。でもどこか寂しげだとも思った。

「なあ、ユッカ姉」

「なあに?」

「本当は何か理由があるんだろ?旦那さんと喧嘩した理由が」

「別に」

「嘘つけよ。そういう顔しておいて、別にはないだろ」

「……コウ君さ、私が結婚した時の話って、知ってる?」

「あんまり。大変だったってのは聞いているけれど」

「彼ね、婚約者がいたのよ。結納も済ましていて、……そんでまあ色々あって、
簡単に言うと私が奪っちゃったのよね。そんな訳で、当時は相手が告訴すると
かしないとか、示談金を支払ったりとか、そんな騒ぎがあったの。だからうち
の家族もあんまり賛成していなかったのよね」

「それでも一緒になったんだろ?それだけ相手のこと好きだったんだろ?だっ
たら何故喧嘩なんか」

「浮気よ、浮気。彼のね。考えてみれば、私の時だって浮気相手だったのが本
気になっちゃったわけで、今度は自分が浮気されたってこと。要するに、簡単
に浮気するような奴だったってことなのよ」

「で、旦那は謝ってきたの?」

「知らないわよ。何も話聞かないで出てきちゃったから。本当は私には、怒る
ような資格ないのにね」

「うーん。僕にも何か言える資格はないけれど、話聞かずに出てきたってのは
ちょっと、かなあ」

「でもしょうがないじゃない。あの人の声聞くのも嫌になっちゃったんだから」

ユッカ姉はうーんと背伸びをした。諦めているようでいて諦めきれないような、
そんな不思議な顔だった。

その時ふわんと風が吹いて、僕らの頬を撫でた。ユッカ姉は慌ててスカートを
押さえたけれど、そのはずみに帽子が風に舞った。帽子は二、三度空中を上下
に踊り、川面に落ちた。そのまま下流に流されていく。

「取ってくるから。そこにいて」

僕は下流に向かって走り出した。

帽子はどんどん流れていく。山の川の流れはむらがあり、急に進んだかと思う
とその場でくるりと回転したりする。

仕方がないから、僕は魔法を使うことにした。指をくるりと一回転。

------帽子がこっちに流れてきますように。

帽子は見る見る僕のほうに近付いてきた。川縁から三十センチくらいに近付い
てから、しゃがんで手を伸ばして帽子を回収した。

「取ったよ」と振り向こうとした時だった。バシャンという大きな音がして、
それと同時に悲鳴が響く。

音と声のした背後を見ると、ユッカ姉が川の真ん中に座り込んでいた。川原に
はサンダルが揃えてあり、どうやら帽子を取ろうとして川の中に入っていって、
足を滑らせたらしい。

呆然とした顔で僕の方を見ていた、と思ったら、けたたましく笑い出した。

「アハハハハハハハハハハハ!私、バッカみたーい!」

そうして座ったままでいつまでも笑い続けている。仕方がないから、僕も靴を
脱いで川に入り、ユッカ姉に手を差し出した。

「ほら、いいから起きなよ」

「さんきゅー」

僕は腕に力をこめてユッカ姉を引っ張ろうとした。するとユッカ姉は思いがけ
ず強い力で僕を引っ張って、僕はそのままバランスを崩して、前のめりに、バ
シャンと水の弾ける音が、

気がつくと僕はユッカ姉に覆い被さっていた。ユッカ姉のワンピースは、川の
水に濡れて透けていて、下着の線がくっきりと浮き出ていた。しかもその胸が
丁度目の前にある。甘くて良い匂いがして、僕は慌てて顔を上げた。

ユッカ姉は何故か切なそうな顔をしていた。両手を合わせて、僕の目の前に持っ
てくる。手が徐々に僕の顔に近付いて来て、

ピシャッ

手の平で作った水鉄砲から勢い良く水が飛び出し、僕の顔に命中した。

「アハハハハハハハハハ」

ユッカ姉は僕を指さして笑っていた。

「ひどいよ。ユッカ姉!」

僕は起きあがりざまに手で水をすくい、ユッカ姉に投げつけた。水の塊は円弧
を描いて飛んで行き、ユッカ姉の顔にぶつかった。

「やったわねっ!」

ユッカ姉が反撃を開始した。もちろん僕も応戦する。水のかけ合いの応酬は、
それからしばらく終わらなかった。



二人してびしょ濡れになって帰宅したら、じいちゃんとばあちゃんに呆れられ
た。

僕らはいたずらが見つかった小さい子供のように、舌を出して笑い合った。

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