告知など


2017-06-15 [Thu]

15センチの短編書きました

カクヨムでやっている「僕とキミの15センチ」という企画向けの作品書きました。

「ギガヘルツの、ちょっと先」 − 2GHzの長さだけ、彼女はジャンプする。−

https://kakuyomu.jp/works/1177354054883309632

わりと、SFです。少年と、大学院生のお姉さんが出会います。全4章、完結済です。

読んでね。

さて、この「僕とキミの15センチ」の企画はファミ通文庫作家と競作しよう的なイベントなのですが、ファミ通文庫出身ですが呼ばれなかった僕は、空気を読まずに勝手に書いて一般枠で参加しているというのが、この作品の味わい深い点です。

あえて空気を読まないファイティングスタイルっつーか。いや別にファイトはしていないけど。

だから、読んでね。


2017-05-28 [Sun]

漫画化されました

僕の作品が、ではなく、僕が。

何を言っているか分からないと思うが(以下略

漫画家のうめさんがクラウドファンディングで募集していた「スティーブス海外殴り込みプロジェクト」にbackしまして、それのreturnとして、作中登場権を得て、現在うめさんが連載している「おもたせしました」に登場させていただきました。

私登場分は、現在発売している月刊コミック@バンチ7月号に掲載されています。

直木賞に落ちたばかりの作家役です。直木賞て。

話に登場するお店は自由が丘なのですが、自由が丘といえば、私の母校の東工大からはすぐ近所でして、学生時代は買い物したり飲み会したりしてました。不思議な偶然です。

月刊コミック@バンチ 2017年7月号


2017-01-09 [Mon]

勉強をしたくてできずに死んでいったひとのこと

今更になって思い出すことがある。祖母の兄のことだ。祖母の兄は何人もいて、どの人のことなのかよく分からなくなっているのだが、みんな優秀だったとは聞かされている。

そして、兄のうちの何人かは若くして亡くなっていることも聞いている。

勉強をしたい、勉強をしたいと言いながら死んでしまったと、何度も聞かされた。病死だったか、戦死だったか、そもそも亡くなった兄は一人なのか二人なのか、記憶が曖昧だが、今になって考えるとこの話は僕の物の考え方に強く影響を与えているような気がしてならない。この話を聞かされた小学生当時は、勉強しなさいってのを遠回しに言われているのだと思っていたのだが。

すなわち、全力でやりたいことがあったのに、不本意な原因でそれができずに死んでいった人の物語だ。

今の僕は全力でやりたいことがあるのにその全力が出せない(子供のことや自分の健康のことなどから)ことが本当につらいのだけれど、これはもしかして幼い頃に言われてきたことの呪縛なんじゃないかという気が、ふとしたのだ。

だけどそれを恨むつもりはない。

世の中には全力を出したいと思うことを見つけられない人や、そもそも全力を出す行為自体ができない、あるいは発想の中にない人もいるので、全力を出す目標や出す方法論を知っている自分はむしろ幸せだとすら思っている。

ただ、全力を出して生きることが当然だと思って生きることは、現実的に疲れるしきついし困難も多いし壁も多い。それでも僕はそういう生き方しか分からないし、更に不器用なので正面突破しようとして壁にぶつかって心が折れそうになることも多い。

それなのに「こういう生き方しかできないし」と思ってしまうのは、高倉健に憧れているわけではなく、幼少時の呪縛と、その後の人生で見てきた、全力で生きてその志半ばで亡くなった友人知人先輩の影があるように思う。

徴兵されて戦争で死ぬこともなく、昔よりは病気で死ぬことも減っているなかで、全力で生きる機会があるのなら、そこで全力を出せるのは、とても幸せなことなんじゃないかと思う。

生きていて、全力を出せるのは、とても幸せなことなんじゃないかと思うのだ。

その気持ちを駆動しているのが呪縛であるのなら、その程度のものは背負ってやろうじゃないかとも思う。


2017-01-01 [Sun]

あけましておめでとうございます。

2017年になりました。特に何もありません。何を頑張ろうというものがあるわけでもない一方で、基本的に全力でやっていないと死んでしまう生き物でもあり、悶々としたどっちつかずの日々が続いています。2016年はそんな感じの一年でしたが、2017年になって、だから何を打破しようなどという決意ができるわけでもなく。一年の計は元旦にありと申しますが、ここから一年のことなんか、分からんよ(クワトロ風)というのが正直なところです。

息子がもう少し落ち着いてくれると、色々と助かるのですが、5歳くらいから小学校中学年くらいまでは、ダウン症の男の子の中でも元気なタイプの子は苦労が多いと、主治医の先生が言っていたと妻から聞いてもおり、難しいのぉと頭を悩ませております。

それはそれとして、GeForce GTX 1050 Ti のボードを一枚買ってみましてね。

Linux用ドライバの最新版はGTX1050系に対応している。

Chainerの最新版はCUDA 8.0に対応している。

ということで、GTX 1050 Ti + CUDA 8.0 + Chainer on Ubuntu 16.04LTSがさくっと環境作れるんじゃないかと思ったのですが、まだちゃんとできていません。

本来、一番簡単な方法は、 https://developer.nvidia.com/cuda-downloads からOSなどを選び、deb(network)をダウンロードして、dpkg -iして、apt-get updateしてapt-get install cudaなのですが、これだと一世代前のドライバが入ってしまい、1050Tiは認識されません。

そこで、ドライバのPPAを追加して、最新ドライバをまずインストールします。

# add-apt-repository ppa:graphics-drivers/ppa

# apt-get update

# apt-get install nvidia-375

CUDA 8.0は、runfile(local)をダウンロードしてインストールします。

cuDNNもインストールするけれど、そこの手順は割愛。

そしてchainerをインストールします。

(PATHとLD_LIBRARY_PATHを適宜設定)

# env CUDA_PATH=/usr/local/cuda pip install chainer

# apt-get install --reinstall nvidia-375

これでいけると思うのだけれど、

・nvidia-smiでデバイスは認識している

・CUDAのサンプルアプリのmakeは完了する

・CUDAのサンプルアプリを実行すると、デバイスが見つからない

・Chainerは、from chainer import cuda しても、cuda.cupyを使おうとすると、そんなのはないと言われる

という状況で、

・CUDAがデバイスを認識できていないっぽい

・Chainerはインストーラの時点でCUDAの存在を認識できていないっぽい

という感じです。どうせいじっている時間もないので、待てはよい気もするけれど、GeForce GTX750Tiあたりの枯れたボードを一枚買って試した方がよさげな気もしています。

というか、インストール手順のメモがネットに沢山転がっているんだけれど、この人たちは動作確認までやっているのだろうかという疑問があります。


2016-12-26 [Mon]

塞翁が馬的なこと

今朝駅の自動販売機でジュース買おうとしてお金いれてボタン押したんだけれど、商品が出てきませんでね。

たまにあることではあります。

駅の窓口か、自動販売機の管理会社に言えば返金してもらえるけれど、ホームから改札まで戻るのも大変だし、時間もないし面倒だしで、いいやと思ってしまったわけですわ。

丸損ですよ。

小銭だけれど。

でもここで「まあまあ、もしかすると、これは年末あたりに宝くじがドンと当たる露払いかもしれぬ」などと思い、いや当たるはずなんか絶対ないんだけれど、そう思うことで「ま、いっか」と思ったわけですわ。

人間万事塞翁が馬というやつですな。

同時に、ここで「ま、いっか」と思えない人は、もしかして一日中このことを考えて、落ち込んだりイライラしたりするんじゃないかとも思ったわけですわ。

小銭とはいえ、金のことはそんな簡単にあきらめちゃ駄目だろというのは、ひとつの理としてあるとは思う。

とはいえ、結局色々なものを天秤にかけて判断をするわけで、おっさんになると天秤のパラメータとして「時間」とか「体力」とか「怒ることで消耗するエネルギー」とかも含まれてくるので、「ま、いっか」というのは一般的にはとても大事。

だけど、塞翁が馬ってのは、最終的にプラスになればいいという前提があり、その前提は「生きていれば最終的には良い事があるさ」という成功体験の積み上げに裏打ちされている。

何をやっても良い結果になった経験がない人は、塞翁が馬理論を受け入れない。

しかし、何をやっても「これは、まあ、良いことだと言えるな」と思えない人は、塞翁が馬理論の積み上げもできない。何か変なことがあっても、まあ良いことかもしれない、などと思えると、塞翁が馬理論が積み上げられる。

フィードバック回路である。

塞翁が馬シンギュラリティと呼んでもよいかもしれない。

飛躍ではあるが、もしかして、AIシンギュラリティに本当に到達するかどうかは、実は初期パラメータの時点で既に定まっていて、僕等はそのパラメータが何なのかを知らないだけなのではないだろうか。

しかし、それがパラメータであるのなら、そのパラメータが成立している宇宙と、成立していない宇宙とがあるのではないだろうか。

などと、しょうもないことを考えながら、書くべき作文を進めることもできず、いいやもう帰ろうかなどと思う今日この頃。


2016-12-08 [Thu]

IoTデバイスっぽいものの通信アーキテクチャのこと

カシオの置時計で、Bluetooth経由でスマートフォンと連携するものがあります。

http://casio.jp/wat/watch_detail/DWS-200J-7/

スマートフォン経由で天気情報を取得して表示したり、おそらく時刻同期もスマートフォン経由でやっているのではないかと思います。

ポイントは、これは置時計であり、通信の中継をしているスマートフォンは移動体であること。

おっさんエンジニアの発想からすると、置時計はその場のインフラであるところの、有線なり無線なりのLANに接続されるべきだと考えてしまうわけですが、こいつの通信の中継をしているのは、環境のインフラではなくて人間が持ち歩いているモバイル通信デバイスであるところのスマートフォンです。

確かに考えてみれば、気象情報の取得や時刻同期は常時接続されている必要はなく、不定期に接近する人間(が持っているデバイス)を中継できれば十分だし、設置場所にネットワークインフラがない可能性はあるが、スマホを持っている人間が設置場所近辺にいる可能性は高い。何より、買った人間がいるわけだし。

これと同じような形で、通信インフラの前提が有線・無線LANではなく、スマホによる中継というものを、最近見かけるように思う。

これって、いわゆる「IoTデバイス」と言った時の通信モデルが、当初みんなが思い描いていたものとは違ってきていることだと思います。加えて、中継するモバイルデバイスが複数の人のスマホだったりすると、モデルとしてはNEMOに近い?のか?本当か?などと考えてしまいます。PANとも違うんだよね。物理的固定デバイスだから、位置情報は変わらないわけだし。

LTEや5Gだけじゃなくて920MHz帯あたりも出てきているものの、電波はやっぱり有限なわけで、この先どうなっていくのか非常に興味深いです。


2016-11-20 [Sun]

この世界の片隅で

劇場アニメ「この世界の片隅で」を見てきました。

http://konosekai.jp/

普通に正直に真面目にある種愚鈍に、大変なこともあり楽しいこともあり、それでも日々、少しずつ頑張りながら生きていく。

それだけのことが、今の僕はどうしてこんなに大変なのだろう、と思いながら見ていました。

また、この映画は「1945年8月6日広島」という日本人にとっては誰もが知っていてある種刷り込まれている日に向かい、経由する物語である。そういった背景を共有しているかどうかで、受け取り方は全然違ってくる。

この作品には、あまり説明がない。ただ、細かくて正確で丁寧な描写がある。見る側は、描写の中から読み取らなければならない。

ネタバレになるし、僕の「読み取り」が誤っているかもしれないので、細かなところで「これはこういう意味だよね」みたいなことは書かないが、描写されている色々なことが「あの時代はああだったんだな」ということばかりで、それは良いこともあるい良くないこともある。

ほんの数十年前の日本は、ああだった。

それから時間をかけて、色々なことを変えたり積み重ねたりして、今ができあがっている。

できあがった今が、数十年前の日本の問題を全部解決できているとは思えないし、全然よくなっていないこともある。それから目を背けるつもりはない。

だけど、せっかく作ってきた世の中は、簡単にこわしてはいけないよなあとは思う。


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