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2017-01-09 [Mon]

勉強をしたくてできずに死んでいったひとのこと

今更になって思い出すことがある。祖母の兄のことだ。祖母の兄は何人もいて、どの人のことなのかよく分からなくなっているのだが、みんな優秀だったとは聞かされている。

そして、兄のうちの何人かは若くして亡くなっていることも聞いている。

勉強をしたい、勉強をしたいと言いながら死んでしまったと、何度も聞かされた。病死だったか、戦死だったか、そもそも亡くなった兄は一人なのか二人なのか、記憶が曖昧だが、今になって考えるとこの話は僕の物の考え方に強く影響を与えているような気がしてならない。この話を聞かされた小学生当時は、勉強しなさいってのを遠回しに言われているのだと思っていたのだが。

すなわち、全力でやりたいことがあったのに、不本意な原因でそれができずに死んでいった人の物語だ。

今の僕は全力でやりたいことがあるのにその全力が出せない(子供のことや自分の健康のことなどから)ことが本当につらいのだけれど、これはもしかして幼い頃に言われてきたことの呪縛なんじゃないかという気が、ふとしたのだ。

だけどそれを恨むつもりはない。

世の中には全力を出したいと思うことを見つけられない人や、そもそも全力を出す行為自体ができない、あるいは発想の中にない人もいるので、全力を出す目標や出す方法論を知っている自分はむしろ幸せだとすら思っている。

ただ、全力を出して生きることが当然だと思って生きることは、現実的に疲れるしきついし困難も多いし壁も多い。それでも僕はそういう生き方しか分からないし、更に不器用なので正面突破しようとして壁にぶつかって心が折れそうになることも多い。

それなのに「こういう生き方しかできないし」と思ってしまうのは、高倉健に憧れているわけではなく、幼少時の呪縛と、その後の人生で見てきた、全力で生きてその志半ばで亡くなった友人知人先輩の影があるように思う。

徴兵されて戦争で死ぬこともなく、昔よりは病気で死ぬことも減っているなかで、全力で生きる機会があるのなら、そこで全力を出せるのは、とても幸せなことなんじゃないかと思う。

生きていて、全力を出せるのは、とても幸せなことなんじゃないかと思うのだ。

その気持ちを駆動しているのが呪縛であるのなら、その程度のものは背負ってやろうじゃないかとも思う。


2017-01-01 [Sun]

あけましておめでとうございます。

2017年になりました。特に何もありません。何を頑張ろうというものがあるわけでもない一方で、基本的に全力でやっていないと死んでしまう生き物でもあり、悶々としたどっちつかずの日々が続いています。2016年はそんな感じの一年でしたが、2017年になって、だから何を打破しようなどという決意ができるわけでもなく。一年の計は元旦にありと申しますが、ここから一年のことなんか、分からんよ(クワトロ風)というのが正直なところです。

息子がもう少し落ち着いてくれると、色々と助かるのですが、5歳くらいから小学校中学年くらいまでは、ダウン症の男の子の中でも元気なタイプの子は苦労が多いと、主治医の先生が言っていたと妻から聞いてもおり、難しいのぉと頭を悩ませております。

それはそれとして、GeForce GTX 1050 Ti のボードを一枚買ってみましてね。

Linux用ドライバの最新版はGTX1050系に対応している。

Chainerの最新版はCUDA 8.0に対応している。

ということで、GTX 1050 Ti + CUDA 8.0 + Chainer on Ubuntu 16.04LTSがさくっと環境作れるんじゃないかと思ったのですが、まだちゃんとできていません。

本来、一番簡単な方法は、 https://developer.nvidia.com/cuda-downloads からOSなどを選び、deb(network)をダウンロードして、dpkg -iして、apt-get updateしてapt-get install cudaなのですが、これだと一世代前のドライバが入ってしまい、1050Tiは認識されません。

そこで、ドライバのPPAを追加して、最新ドライバをまずインストールします。

# add-apt-repository ppa:graphics-drivers/ppa

# apt-get update

# apt-get install nvidia-375

CUDA 8.0は、runfile(local)をダウンロードしてインストールします。

cuDNNもインストールするけれど、そこの手順は割愛。

そしてchainerをインストールします。

(PATHとLD_LIBRARY_PATHを適宜設定)

# env CUDA_PATH=/usr/local/cuda pip install chainer

# apt-get install --reinstall nvidia-375

これでいけると思うのだけれど、

・nvidia-smiでデバイスは認識している

・CUDAのサンプルアプリのmakeは完了する

・CUDAのサンプルアプリを実行すると、デバイスが見つからない

・Chainerは、from chainer import cuda しても、cuda.cupyを使おうとすると、そんなのはないと言われる

という状況で、

・CUDAがデバイスを認識できていないっぽい

・Chainerはインストーラの時点でCUDAの存在を認識できていないっぽい

という感じです。どうせいじっている時間もないので、待てはよい気もするけれど、GeForce GTX750Tiあたりの枯れたボードを一枚買って試した方がよさげな気もしています。

というか、インストール手順のメモがネットに沢山転がっているんだけれど、この人たちは動作確認までやっているのだろうかという疑問があります。


2016-12-26 [Mon]

塞翁が馬的なこと

今朝駅の自動販売機でジュース買おうとしてお金いれてボタン押したんだけれど、商品が出てきませんでね。

たまにあることではあります。

駅の窓口か、自動販売機の管理会社に言えば返金してもらえるけれど、ホームから改札まで戻るのも大変だし、時間もないし面倒だしで、いいやと思ってしまったわけですわ。

丸損ですよ。

小銭だけれど。

でもここで「まあまあ、もしかすると、これは年末あたりに宝くじがドンと当たる露払いかもしれぬ」などと思い、いや当たるはずなんか絶対ないんだけれど、そう思うことで「ま、いっか」と思ったわけですわ。

人間万事塞翁が馬というやつですな。

同時に、ここで「ま、いっか」と思えない人は、もしかして一日中このことを考えて、落ち込んだりイライラしたりするんじゃないかとも思ったわけですわ。

小銭とはいえ、金のことはそんな簡単にあきらめちゃ駄目だろというのは、ひとつの理としてあるとは思う。

とはいえ、結局色々なものを天秤にかけて判断をするわけで、おっさんになると天秤のパラメータとして「時間」とか「体力」とか「怒ることで消耗するエネルギー」とかも含まれてくるので、「ま、いっか」というのは一般的にはとても大事。

だけど、塞翁が馬ってのは、最終的にプラスになればいいという前提があり、その前提は「生きていれば最終的には良い事があるさ」という成功体験の積み上げに裏打ちされている。

何をやっても良い結果になった経験がない人は、塞翁が馬理論を受け入れない。

しかし、何をやっても「これは、まあ、良いことだと言えるな」と思えない人は、塞翁が馬理論の積み上げもできない。何か変なことがあっても、まあ良いことかもしれない、などと思えると、塞翁が馬理論が積み上げられる。

フィードバック回路である。

塞翁が馬シンギュラリティと呼んでもよいかもしれない。

飛躍ではあるが、もしかして、AIシンギュラリティに本当に到達するかどうかは、実は初期パラメータの時点で既に定まっていて、僕等はそのパラメータが何なのかを知らないだけなのではないだろうか。

しかし、それがパラメータであるのなら、そのパラメータが成立している宇宙と、成立していない宇宙とがあるのではないだろうか。

などと、しょうもないことを考えながら、書くべき作文を進めることもできず、いいやもう帰ろうかなどと思う今日この頃。


2016-12-08 [Thu]

IoTデバイスっぽいものの通信アーキテクチャのこと

カシオの置時計で、Bluetooth経由でスマートフォンと連携するものがあります。

http://casio.jp/wat/watch_detail/DWS-200J-7/

スマートフォン経由で天気情報を取得して表示したり、おそらく時刻同期もスマートフォン経由でやっているのではないかと思います。

ポイントは、これは置時計であり、通信の中継をしているスマートフォンは移動体であること。

おっさんエンジニアの発想からすると、置時計はその場のインフラであるところの、有線なり無線なりのLANに接続されるべきだと考えてしまうわけですが、こいつの通信の中継をしているのは、環境のインフラではなくて人間が持ち歩いているモバイル通信デバイスであるところのスマートフォンです。

確かに考えてみれば、気象情報の取得や時刻同期は常時接続されている必要はなく、不定期に接近する人間(が持っているデバイス)を中継できれば十分だし、設置場所にネットワークインフラがない可能性はあるが、スマホを持っている人間が設置場所近辺にいる可能性は高い。何より、買った人間がいるわけだし。

これと同じような形で、通信インフラの前提が有線・無線LANではなく、スマホによる中継というものを、最近見かけるように思う。

これって、いわゆる「IoTデバイス」と言った時の通信モデルが、当初みんなが思い描いていたものとは違ってきていることだと思います。加えて、中継するモバイルデバイスが複数の人のスマホだったりすると、モデルとしてはNEMOに近い?のか?本当か?などと考えてしまいます。PANとも違うんだよね。物理的固定デバイスだから、位置情報は変わらないわけだし。

LTEや5Gだけじゃなくて920MHz帯あたりも出てきているものの、電波はやっぱり有限なわけで、この先どうなっていくのか非常に興味深いです。


2016-11-20 [Sun]

この世界の片隅で

劇場アニメ「この世界の片隅で」を見てきました。

http://konosekai.jp/

普通に正直に真面目にある種愚鈍に、大変なこともあり楽しいこともあり、それでも日々、少しずつ頑張りながら生きていく。

それだけのことが、今の僕はどうしてこんなに大変なのだろう、と思いながら見ていました。

また、この映画は「1945年8月6日広島」という日本人にとっては誰もが知っていてある種刷り込まれている日に向かい、経由する物語である。そういった背景を共有しているかどうかで、受け取り方は全然違ってくる。

この作品には、あまり説明がない。ただ、細かくて正確で丁寧な描写がある。見る側は、描写の中から読み取らなければならない。

ネタバレになるし、僕の「読み取り」が誤っているかもしれないので、細かなところで「これはこういう意味だよね」みたいなことは書かないが、描写されている色々なことが「あの時代はああだったんだな」ということばかりで、それは良いこともあるい良くないこともある。

ほんの数十年前の日本は、ああだった。

それから時間をかけて、色々なことを変えたり積み重ねたりして、今ができあがっている。

できあがった今が、数十年前の日本の問題を全部解決できているとは思えないし、全然よくなっていないこともある。それから目を背けるつもりはない。

だけど、せっかく作ってきた世の中は、簡単にこわしてはいけないよなあとは思う。


2016-11-01 [Tue]

聾の形

劇場アニメ「聾の形」を見ました。原作も全巻読んでいます。最初に雑誌掲載されたバージョンも読んでます。それを改稿した読み切りバージョンは読んでないです。

まず、真面目なことを書く前に、身もふたもないことを書いてしまうと、硝子ちゃんが可愛くておっぱい大きいから成立する部分はありますよね、と。

さて。

最初のバージョン、連載の最初の部分というのは、「書かずにはいられなかった作品」という印象を受けました。それだけにパワーがあります。

高校に入ってからの部分は、ものすごく考えて悩んで組み立てられたという印象を受けました。同時に、これだけのものを組み立てられる作家なのだろうとも思いました。

だけど、考えて組み立てられているだけに、書き手視点で見てしまうと分解と解釈というプロセスが可能になるんですな。そうして、ついつい、こことここがリンクしていて、ここでこう消化して、でもこう持っていくしかないよなあ、などという見方をしてしまう。

それはそうと、一番気になったのは、父親がまったく出てこないな、という点でした。欠如とか欠落を表現しようとしたときに、最初に削られるのは父親なのかと。まあ分かりやすくはあるのですが。

原作にある映画のエピソードを削ったのは正解だと思いました。尺の問題もあったのでしょうけれど、あの映画は劇中劇というか、メタ構造になってしまっているという解釈もできて、作り手の釈明になりかねない。

個人的には、硝子の母親というのが一番突き刺さるわけです。まあ、これはしょうがない。

同時に、このキャラは非常に難しいとも思います。原作に出てきた過去話が出てこないし。

そして、このキャラの言動は、作者も考えて描写しているのが分かります。土下座をする姿は、ああ書かざるを得ないでしょう。しかし同時に、あの土下座の時の彼女の気持ちのありようの本当のところというのは、受け手側に本当に伝わっているのだろうか、いやそもそもそれは何かしらの表現で伝えられるものなのか、という疑問を切実に感じました。

だからと言って、「俺なら表現できる」と言うつもりはありません。自分は多分理解はできるし、自分自身一歩間違えれば心のスイッチが切り替わってしまう危険性を抱えながら生きている。だけど、この危うさを表現するのは、本当に難しいことなのではないかと。

ただ、母親の土下座と硝子の謝罪とは、少しだけ違うと思うのです。もしかすると長く一緒にいるうちに同じようなことになっている可能性はありますが、その感情の成立の背景が、やはり違う。

もしかすると、この違いに、このテーマの突破口があるのではないかと思いました。

だから、子供たち同士が直接やりあう部分を中心に置いたことは正しいアプローチだと思います。

そうだとすると、今度は硝子の意思表示をどうするかという問題があります。原作では硝子から世界はこう聞こえているというシーンがありました。映画ではその部分が明示的にはありませんでした。

しかし。「聾の形」というタイトルと、主人公の求めていることを合わせると、「硝子が伝えたいことを理解したい」というスタンスの作品とも読めます。これだと、言い換えれば(難癖かもしれませんが)硝子が伝えなければ理解されないことになります。当然と言えば当然で、硝子の母親についてはもはや難しいか多少は本人にもどうでもいい気持ちがあるだろうと思いますが、硝子はまだ前に進める余地があるように思います。

そこを、もう少し引き出せなかったのか、表現できなかったのか、というのが、気になりました。


2016-10-30 [Sun]

エヴァンゲリオンの残像

Kindleで、今更ながらスキゾ・エヴァンゲリオンとパラノ・エヴァンゲリオンを読みましてね。

あの当時の、今となっては謎のとしか言いようのない熱量を思い出したりしたのですが、スタッフ(ガイナックスのコアメンバー)の座談会とか、庵野監督のインタビューとか読んでいて、やっぱりすげーことやる連中はどこかおかしくて、そういう連中は仲間を呼び合うのだなということを思いました。

いや、労働環境の問題とかね、色々あるんだけれど、好きなことは全力でやりたいし、やったら楽しいし、贅沢できなくても飯は食えたいよな。


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