告知など


2017-08-20 [Sun]

「ことば」について

SF作家クラブのネットマガジンであるSF PrologueWaveにて、ショートショートを書かせていただいたのですが、これについて、補足というか本文からはみだした部分について少し。

タイトルは「消えてしまったメッセージ」です。

http://prologuewave.com/archives/6269

さて、オマージュの元ネタは、みんな大好きテッド・チャンの「あなたの人生の物語」。「メッセージ」という題名で映画化されました。

「あなたの人生の物語」は、宇宙からやってきた謎の物体から言語らしきものを教わるという内容で、そのあたりを僕の作品でもネタにしています。元ネタが扱う言語と僕の作品が扱う言語では、その役割がだいぶ違います。

僕の作品での「言語=ことば」というのは、おそらくよりプリミティブで原始的な「ことば」、それこそ言語が生まれたばかりの頃の役割とか目的に基づいた「ことば」なのだろうと考えています。

ことばというのは、実に不思議です。

息子はまだ、いくつかの単語とまれに二語文しか発語が出ていません。しかし、本人は自己主張や他人とコミュニケーションをとりたいという気持ちが強くあります。また、家の中や慣れている人との間では、ジェスチャーやサインなどを併用して、一定の意思疎通ができています。

正直、世界が自分たち三人だけなら、それはそれで成立するのに、とすら思います。

しかし世界は三人ではありません。なにより、息子は人間の中で生きてかないといけなくて、同時に彼はそれを望む種類の人間のように見えます。

だからやはり、彼は「ことば」を学ぶ必要があり、僕等はそれを教える必要があるのだろうと考えます。

時間はかかるだろうと思いますが。

この作品は、ことばをモチーフにしたSF小説であると同時に、今現実に僕等が直面している問題意識を切り取ったテキストでもあるのです。


2017-08-02 [Wed]

断捨離という言葉が好きではないのだが

色々身の回りを軽くしたいので、捨てたり売ったりしている。

持っているだけで演奏していなかった楽器も次々と売り払っている。楽器に申し訳ないなと思いながら、クリーニングをして売りに出す。次の持ち主はちゃんと弾いてくれる人でありますように。

コンピュータ系はしょうがないのでヤフオクですな。売れるものだけ切り出して。

売るのが面倒くさいものは捨てる。しょうがないので捨てる。

何かしら価値があるだろうとは思いつつも、体を軽くしたいから捨てる。

捨てるのだ。


2017-07-05 [Wed]

社会性の構築

エレベータに乗りながら考えた。

前の人の残り香らしきタバコの匂いがする。単純に気持ち悪い。しかし、それに気づき記述してみるというのは、ひとつの観察である。

思うに、僕の社会とのインタフェースは、ひたすら観察を積み上げることで作り上げているのではないか。

そうだとすると、観察する余裕、観察を積み上げて演繹する余裕がなくなると、社会とのインタフェース構築も破綻するのではないか。

そしていま、破綻しかけているのではないか。少なくとも新たな観察結果を消化する余裕は持てていないのではないか。

とはいえ、破綻して困るかというと日常生活は現状維持をすればいいだけなので、別に困らない。

ただ、社会の観察が広がらないのは、どうなのか、とは思う。

「世の中というモノ」にたいする物の見方というのが固定化してしまうのは、よろしくないと思う。とくに、そうなりやすい年齢に既に差し掛かっているわけで。

年をとると体力が下がることもあり、どんどん楽をするようになり、どこかで考えることをやめてしまう危険性がある。その時のことを想像すると、ものすごい恐怖に襲われる。

僕は簡単に感情を停止させることができる。その上考えることまで停止してしまったら、どうすればよいのだろう。

ああ、中二病っぽい。いや、中二病っぽさが残っているうちは、まだ大丈夫な気もする。

中二病と言えば。

Kindleでお試しセールをやっていて、きまぐれ☆オレンジロードの1巻と2巻が無料で読めたので読んでみた。驚いたのが、あいつら中学生っていう設定なのな。中学生って考えると、ものすごく大人びた設定だったんだなと思う。昭和の中学生、すげーな。

70年代80年代前半くらいの頃、ロボットアニメの主人公=パイロットは高校生くらいの年代だった。ガンダムでアムロが16歳という当時としては幼い設定だったんだけれど、それ以降、おおよそ高校生以上だった。一気に低年齢化したのは、銀河漂流バイファムだと記憶している。主人公ロディ・シャッフルは13歳だったか14歳だったか。当時自分は11歳か12歳で、ロボットアニメのパイロットの年齢に手が届くようなったと感じた。

実はこの時期は3年B組金八先生の時代でもあり、中学校が荒れていた時代でもあった。

それもあって、世間は中学生は小さな大人という扱いをしていたようにも思う。

話が脱線したが、じゃあ中学生がいつからただのガキに戻ったのかというと、やっぱりエヴァンゲリオンなのかなあ。


2017-07-04 [Tue]

社会性の皮

色々小説などを読みながら考えた。

僕が持つ社会性とか常識的な生活とかってのは、実は空想の世界に近いところにある薄いレイヤーみたいな薄皮みたいなものなんじゃないだろうか。

自分の実体は空疎に近い何かで、そこに辛うじて薄皮がかぶさっているだけなんじゃないだろうか。

そのレイヤーは、しかし空想世界側にあるので、たとえば空想世界を小説のような形で具現化しようとするときには、ちゃんとレイヤーとしてかぶさってきて、社会性があるようなアウトプットになる。

でもそういう形でのアウトプットにならない、普段の生活の場合、薄皮のない空疎な自分をそのままみせざるを得ない。でも空疎なので、別にそれを見せることに何の感慨もないと言えばない。

こんなことを考えたのは、先日同窓会に行って、みんながあまりに普通に世間話をしていることに衝撃を受けたからかもしれない。他愛もない普通の話をするというのが、どうも僕はできないようだ。

それは欠陥なのかもしれないし、そういう仕様なのかもしれないし、少なくとも奥さんとは普通に話ができるので、それだけで生活する上で用は足りるから気にする必要のないことなのかもしれない。

でもまあ、みんなすごいなあえらいなあとは思ったのだ。

そう考えた時に、自分の社交性とか社会性とか、そういうものが当たり前にある日常というのは、ひどく脆弱で薄いフィルムのような形をしているイメージが浮かんだわけだな。

多分このイメージはそんなに間違っていない気がする。


2017-06-15 [Thu]

15センチの短編書きました

カクヨムでやっている「僕とキミの15センチ」という企画向けの作品書きました。

「ギガヘルツの、ちょっと先」 − 2GHzの長さだけ、彼女はジャンプする。−

https://kakuyomu.jp/works/1177354054883309632

わりと、SFです。少年と、大学院生のお姉さんが出会います。全4章、完結済です。

読んでね。

さて、この「僕とキミの15センチ」の企画はファミ通文庫作家と競作しよう的なイベントなのですが、ファミ通文庫出身ですが呼ばれなかった僕は、空気を読まずに勝手に書いて一般枠で参加しているというのが、この作品の味わい深い点です。

あえて空気を読まないファイティングスタイルっつーか。いや別にファイトはしていないけど。

だから、読んでね。


2017-05-28 [Sun]

漫画化されました

僕の作品が、ではなく、僕が。

何を言っているか分からないと思うが(以下略

漫画家のうめさんがクラウドファンディングで募集していた「スティーブス海外殴り込みプロジェクト」にbackしまして、それのreturnとして、作中登場権を得て、現在うめさんが連載している「おもたせしました」に登場させていただきました。

私登場分は、現在発売している月刊コミック@バンチ7月号に掲載されています。

直木賞に落ちたばかりの作家役です。直木賞て。

話に登場するお店は自由が丘なのですが、自由が丘といえば、私の母校の東工大からはすぐ近所でして、学生時代は買い物したり飲み会したりしてました。不思議な偶然です。


2017-01-09 [Mon]

勉強をしたくてできずに死んでいったひとのこと

今更になって思い出すことがある。祖母の兄のことだ。祖母の兄は何人もいて、どの人のことなのかよく分からなくなっているのだが、みんな優秀だったとは聞かされている。

そして、兄のうちの何人かは若くして亡くなっていることも聞いている。

勉強をしたい、勉強をしたいと言いながら死んでしまったと、何度も聞かされた。病死だったか、戦死だったか、そもそも亡くなった兄は一人なのか二人なのか、記憶が曖昧だが、今になって考えるとこの話は僕の物の考え方に強く影響を与えているような気がしてならない。この話を聞かされた小学生当時は、勉強しなさいってのを遠回しに言われているのだと思っていたのだが。

すなわち、全力でやりたいことがあったのに、不本意な原因でそれができずに死んでいった人の物語だ。

今の僕は全力でやりたいことがあるのにその全力が出せない(子供のことや自分の健康のことなどから)ことが本当につらいのだけれど、これはもしかして幼い頃に言われてきたことの呪縛なんじゃないかという気が、ふとしたのだ。

だけどそれを恨むつもりはない。

世の中には全力を出したいと思うことを見つけられない人や、そもそも全力を出す行為自体ができない、あるいは発想の中にない人もいるので、全力を出す目標や出す方法論を知っている自分はむしろ幸せだとすら思っている。

ただ、全力を出して生きることが当然だと思って生きることは、現実的に疲れるしきついし困難も多いし壁も多い。それでも僕はそういう生き方しか分からないし、更に不器用なので正面突破しようとして壁にぶつかって心が折れそうになることも多い。

それなのに「こういう生き方しかできないし」と思ってしまうのは、高倉健に憧れているわけではなく、幼少時の呪縛と、その後の人生で見てきた、全力で生きてその志半ばで亡くなった友人知人先輩の影があるように思う。

徴兵されて戦争で死ぬこともなく、昔よりは病気で死ぬことも減っているなかで、全力で生きる機会があるのなら、そこで全力を出せるのは、とても幸せなことなんじゃないかと思う。

生きていて、全力を出せるのは、とても幸せなことなんじゃないかと思うのだ。

その気持ちを駆動しているのが呪縛であるのなら、その程度のものは背負ってやろうじゃないかとも思う。


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