告知など
- 「勇者彼女がトイレから出てきません。」
- 彼女がうちのアパートに来たかと思ったらトイレに入って出てこなくて、 何をしているかというと、異世界で勇者をしている話。
- 「ダウン症があるとかないとかどうでもいい、誇りがあればいい。」
- そろそろ子育てエッセイなどというものを書いてみようかと思った次第。
- 「小説生成システム開発計画 - プロジェクトNUE」
- 計算機に小説、いや、使い物になる文章を作らせてみようという試みを、 勉強しながらやってます。
2004-01-13 [Tue] セカイ系について
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世間は連休明けらしいが、そんなことおいらには関係ない。
▼ 足はまだ痛い。
▼ 歯医者に行く。定期検診終了。
▼ ドンキホーテに買い出し。ラジオを買ってきた。これで文化放送の声優ラジオを
聞ける。最終的にはサーバに接続してicecastで流す……のはあまり面白くない
ので、タイマー録音してMP3に次々と落すくらいにしておこうかなと思う。まあ、
そのうち。
▼ 軽めにコーヒーとカフェイン錠と音楽を投入。
▼ どうも重要なのはBGMなようだな。
斎藤環氏がその著書である「心理学化する社会」の中で述べている、「最近の若者は
その興味や認識の対象が、自分のごく身近な空間から、中間を経ずに一気に世界全体の
問題に飛躍している(本文から抽出ではなくて意味的に翻訳しました)」という点は、
奇しくも「セカイ系」というものの定義を言い当てているように思う。というか、氏が
その例としてエヴァンゲリオンなどを挙げていることからも、ある意味当然のことと
解釈できるのだが。
▼ 氏の指摘をもう少し噛み砕くと次のようになる。
昔は身近な大人の世界というのが、働く親兄弟の姿を間近で見ることで存在した(逆に
大きな世界の問題は人々の認知外だった)のだが、現在はメディアの発達と親の働く
姿が見えない(もしくは子どもが接する新しい価値観に必ずしも適合しない)ことによ
り、自分の周囲に手が届きそうな、すなわち自分の将来像として重ねられるような
大人がおらず、代わりにメディアによって得られる世界の巨大な問題があたかも自分に
近い問題のように感じられるようになっている。
だから子供達は、自分の周囲の狭い空間の問題と、世界全体の問題を同じ様に悩み、
それらのみを使って世界観を構築してしまう。
▼ これはメディアやサブカルチャーだけが原因ではない。そもそも戦後の日本の民主教育
の根幹の一つが、「子どもは無限の可能性を秘めている」ということであった(この点
は氏も同書で指摘している)。言い替えれば、「子どもはみんな世界を変える力を持って
いるのだ」ということである。
こういう教育を受ければ、世界全体の問題に子どもが頭を悩ますのも当然だろう。
これがおそらくプレ・セカイ系である。
▼ そしてそれが欺瞞であり、「自分達が世界の真実に触れることは不可能」であると気が
付いてしまったのがエヴァンゲリオンを始めとするセカイ系の作品群であると言える。
▼ 自分が無力であることを認識しながらも、世界の敵と戦うようなそんな理想の自分を
求めてしまう、というメタ・セカイ系と言える群もある。滝本達彦の「ネガティブ
ハッピー・チェンソーエッジ」「NHKへようこそ!」、秋山瑞人の「イリヤの空、UFOの
夏」などが該当するらしい。
▼ では次に来るのはなんだろう。
▼ 我々もいいかげんオッサンになってきた訳で、先の斎藤氏の指摘の中の中間の部分、
つまり働く大人という役割りが社会的には与えられている。それが現代の子供達に
見えていないのだとしたら、それを何らかの手段によって見せて補間するのが、我々の
世代の役割りではないのだろうか。
しかし、そういうのはあまり若い人の琴線に触れないのかもしれないと。少なくとも
ライトノベルの分野では現在の主流ではない。だが一方で、ヤング○○などの青年
漫画雑誌が高校生〜社会人の範囲で読まれていることを考えると、それほど悲観する
こともないのかもしれないとも思う。